法然上人八百年御忌
法然上人八百年御忌とは
法然上人は今を去る八百七十余年前作州美作国(現岡山県久米郡)に漆間時国公と母秦氏のもとに、お生まれになりました。幼名を勢至丸といい、知恵が秀え、利発であったと諸書は伝えています。
勢至丸九歳の時、父時国公は宿敵の夜襲に遭い、深傷をうけ不慮の死を遂げられました。その時の父の遺言「恨みに報ゆることなく僧となり万民を救う道を求めよ」の言葉を忘れることなく、仏教を学ぶために比叡山に登り修行すること二十五年、終に安元元年(一一七五)四十三歳の春、専ら念仏を申すことで「いつでも、どこでも、誰でも救われる教え」を明らかにされました。
念仏の教えは日本全土に弘まりましたが、旧仏教との不調和を招き、三度の法難により法然上人は流罪、弟子は死罪に及ぶという苦難の歴史を刻みました。
建暦二年(一二一二)正月二十三日、法然上人の御遺誡ともされる「一枚起請文」を遺し、同二十五日御歳八十歳で浄土に帰られました。
時は遷り、法然上人滅後の大永四年(一五二四)正月十八日、後柏原天皇の詔勅により上人の御命日を特に「御忌」と尊称することとなりました。上人に対する敬慕の念は、終に東山天皇より初めての大師号「圓光大師」の称号が贈られただけではなく、以後五十年ごとに歴代の天皇より六つの大師号授与の栄に浴されているのであります。