東京は7月にお盆を迎えましたが、全国各地から上京される方も多く故郷の習慣で8月にお盆参りをされる人も多くおられます。

 さて今月のことばは法然上人撰で、浄土一宗の要義を集大成された『選択本願念仏集』の第16章より選んでみました。この文章は法然上人の念仏信仰の極みが表現されており、よって同書の最終章に結語的に示されています。

 内容は、浄土の教えは末法の時代(時)と劣った人間(機)にふさわしく、念仏の行われる時運に当たっています。念仏を行えば水に映った月のように、水は昇らずとも月は降らずとも一つに交わることができるのです。

 このことは念仏を行えば阿弥陀仏と人間がその隔たりを超えて触れ合うことができるということです。このような宗教体験を念仏三昧発得といいます。口称念仏によって散り乱れる心が安らかで深い静寂の状態になった時、求めずして正しい智慧が生じ、極楽の様子や仏菩薩を感じ見ることができるというのです。

 法然上人が自らの念仏三昧発得の事情を書き綴った『三昧発得記』によると、建久9年(1198年)正月より元久3年(1204年)正月にかけてたびたびこの宗教体験をされたことを述べており、特に建久9年1月1日より37日間、日に七万遍の念仏を申されたと同書には誌されています。『選択本願念仏集』はこのような宗教体験の中で執筆されたものといえるのです。

 そもそも宗教とは感応同交の世界で、聖なるもの、絶対的なもの、究極的なものとの触れ合いこそが核心であります。これを表現するのは神話と象徴であり、法蔵菩薩の成仏物語もこれに当たります。しかし現代では、この神話がそのままではなかなか理解されません。
だからこそ感じていくことがとても大切となります。念仏者にとって感応同交の世界は不求自得として念仏を申していく上に開かれていく世界なのです。

 よくよくお念仏を申していきたいものです。

教務部長 井澤隆明