今月のことばは「一紙小消息」の一節に致しました。このご法語は法然上人の「一枚起請文」と並んで二大法語といわれています。「一枚起請文」は「ただ一向に念仏すべし」との結語が表すように念仏の行について強調されています。これに対し「一紙小消息」は「本願に乗ずることは信心の深きによるべし」と、阿弥陀様の本願を信じることの大切さを強調するところに特色があります。
ところでこのご法語では、疑ってはならないこと、つまり信じることについて次のように述べています。
"行すくなしとても疑ふべからず。罪人なりとても疑ふべからず。時くだれりとても疑ふべからず。我身わろしとても疑ふべからず。"
と四つの疑ってはならないことを示し、強く信じなさいと説いています。つまり念仏の行が少なく往生できないのではないか、また罪を重ねて汚れた私などは往生できないのではないか、さらに阿弥陀様の本願のみ心を伝えてくれたお釈 様がお隠れになって久しい末法の時代でも往生できるのか、ましてやこんな三毒煩悩の悪業の深い私が念仏して往生できるのかなどと疑ってはなりません。
阿弥陀様の本願はこれらの疑いを超えて大いなるはたらきをすると深く信じて下さいと法然上人は言われているのです。
これらのうち特に留意しなければならないのは、我身わろしとてもと主体的に受け止めることです。法然上人は常々十悪の法然・愚痴の法然と自らを深く内省されていました。
私たちも家庭が悪い社会が悪い他人がと責任転嫁せず、煩悩具足の自分であると主体的に受け止める念仏者になりたいものです。
教務部長 井澤隆明