このお歌は黒谷金戒光明寺で法然上人がお詠みになられ、池の水のご詠歌として広くお唱えされているものです。
黒谷金戒光明寺は、法然上人43歳の承安5年(1175年)、比叡山の修行を終えて京都の町に下り、最初に開かれたお念仏の道場です。
さて、お歌の意味ですが、大雨が降って水が流れ込んだ時には池の水は濁っています。しかし穏やかな時には、今度はその水がきれいに澄んで池の奥の方まで見渡すことができます。状況に応じて濁ったり澄んだり様々に変化します。
それと同じように人の心もある時には清らかに、ある時には濁った心になって変化します。そういう変化はどこから生じるかというと、すべて縁から生じるのです。縁によって、風が吹いて池の水が揺れる。雨が降って流れ込んで池の水が濁る。それと同じように人の心もその時の縁によって地獄の業を犯したり、あるいは餓鬼の業を犯したり、様々に変化します。またずっと濁っていることもなく、ずっと澄んでいることもなく、その縁に従って心は様々に変化します。池の水が縁によって変化するように、人の心も様々に変化するのですよとお歌い下さった尊いお歌です。
その心を変化させるものは何かというと地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道といいますが、いずれも煩悩に染まった苦界であります。この六道が縁となり、身・口・意の三業となって外へ出てくるわけです。
このように人間の心は六道へと様々に変化します。しかしその変化する六道を超えて、さらにその上の四聖道といわれる声聞・縁覚・菩薩・仏陀、そこへ行ったらもう変化することはありません。
人間の心の一番進化した完全な形が仏陀の心であります。その心を目指しての菩薩、何かを縁として悟りを得る縁覚、仏の声を聞いて悟りを得る声聞、その四聖道に落ち着けば六道に戻ることはないのですが、人間の心というものは縁によって様々に変化してしまいます。
その最上の仏陀の心になった初めてお方がお釈迦様でございましょう。そして仏陀の心になって感じることができる世界を、極楽浄土というわけです。その極楽浄土を目指してすべての心の働きというものを進めてまいりますが、法然上人は難しいことは何もいらない、南無阿弥陀仏とお称えするだけで人間の心は仏陀の心に近づいていき、極楽の世界へ向かう心に変化させることができると私たちに教えて下さったものです。
八木季生ご法主台下『こころの歌』より
教務部長 井澤隆明