このご法語は、元久元年の念仏迫害に際し、法然上人が浄土宗義を明かし、山門に送った『登山状』の中にあり、原典は『賢愚経』の「大施抒海品」で次のように記されています。
波羅奈国の大施太子は、貧者救済のために蔵を開いて宝を出したが、宝は尽きたが貧しきものは尽きなかった。
太子は海の中の龍宮に住む龍王が持つ一切の願いが意の如く叶う如意宝珠があると聞き、修行を積み神通力を得て龍宮に行き、願いを伝えたところ宝珠を戴くことができた。しかし後に龍王の家臣である龍神は宝珠を与えたことを悔い、騙して宝珠を奪い返してしまう。太子は歎き誓って「汝もし宝珠を返さずんば海を汲みほさん」と。龍神「なんと愚か者よ、どうして海の水を汲み干すことができようか」と笑って言う。さらに太子は「私は生まれ変わり死に変わり長い時間を経ても、恩愛の絆を断ち悟りを求めることを願っている。いわんや海水多しといえども限りあり、もし一生に汲みつくさば生々世々を重ねて必ずや汲みつくさん」と。
自ら亀の甲羅で海水を汲み干さんとすると、諸天が手を貸し、あらかた汲み取ってしまう。
龍王慌てて宝珠を返したというもので、精進波羅蜜の大切さなど多くの教えを含んでおります。
しかしさらに法然上人は「いまのわれらは水火を分けて弥陀の本願の宝珠を得たり」と述べています。
水とは深い貪欲な心、火とは燃え盛る瞋恚(いかり)の心で、私たちの日常の心そのものです。しかしながら私たちは心の奥で、この水火を分け煩い悩む心を越えて、浄らかな世界に生きたいと願ってもいます。
この貪瞋煩悩の中の清浄の願心こそ、実は弥陀本願の宝珠であり念仏を申す心であります。
私たちは万里の浪をしのがずとも、お念仏こそ弥陀本願の宝珠であるといただき、しっかりお念仏を申してまいりましょう。
教務部長 井澤 隆明