今月のことばは法然上人述の『念仏往生要義抄』より選んでみました。この書の内容は念仏往生の肝要を述べたもので、念仏以外の教えも釈尊は説かれたが、末代の人々の器量はこれに及ばないとし、阿弥陀様の本願を信じて念仏することによりすべての人が往生できると述べられています。
文章はご理解いただけると思いますが、一遍のお念仏と十遍のお念仏では、その功徳はどちらが勝れておりますか。お答え致します。それは同じです、となります。
私たちは念仏の行は数多く称えた方が丁寧で大事に扱い、往生に向かって精進努力しているようでその功徳は大きいと感じてしまいます。これが一般的な価値観であります。
ところで『無量寿経』に説かれる念仏往生の本願(第18願)では、念仏の数を「乃至十念」と示されております。この乃至について法然上人は『選択本願念仏集』3章に、「乃至といえるは多より少に向うの言なり。多とは上、一形を尽くすなり。少とは下、十声一声に至るなり。」と述べられております。つまり十念乃至一念であり、十念は二十、三十、百、千、万、一形(一生涯)と繋がってまいります。だから阿弥陀様の救いは一遍でも何遍でも数に関係なく、念仏を称えた人は必ず救われていくのです。
私たちの生活を振り返ってみると、念仏信仰の深い家に生まれ、小さい時からお念仏生活に馴染んできた人や、親を亡くし初めて念仏に触れた人や、高齢になって入院し実家の仏壇で念仏していた祖父母の姿を思い出し念仏を称えてみた人、臨終に向かって不安で念仏を申した人など、念仏を申す縁にめぐりあうことは人それぞれであり、時間の長短や念仏の数の多少は大きな違いがあります。しかしながら往生はお念仏の時間の長短やお念仏の数には一切関係はないのです。
お念仏はご縁のあったその時からしっかりとお称え致しましょう。
教務部長 井澤隆明