秋も深まり空気も冴えて月の美しい季節となりました。

 今月は法然上人述の『往生大要鈔』より、信じるということについての祖師の言葉を選んでみました。この書は浄土宗の教えを体系的に述べたもので『和語灯録』に所収されていますが、和語文献中で最も長く内容も専門的で、主に僧侶等を対象にしたものと思われます。現代文にすると次のようになります。

 信とは疑に対する心です。疑いを除くことを信じると言うべきでしょう。見ること聞くこと、全てを間違いないと信じられれば、他人がどう言うとも迷うことはありません。これを信じると言います。表記しませんが続いて、その信に喜びが伴っていればとても素晴らしいことです、と続きます。

 一般に信じる者は救われるとよく言いますが、仏教の中でも『大智度論』には仏教の大海には信を以て能入す。また『選択本願念仏集』には涅槃の城には信を以て能入すとあり、信じることの大切さを伝えております。

 祖師も比叡山入山以来苦節28年承安5年春3月、43歳を迎えたある日、突然に善導大師の『観無量寿経疏』「散善義」の一節、一心専念弥陀名号......という開宗のご文に触れ、たちどころに余行を捨て一向専修のお念仏の教えに帰入されたのであります。

 特に黒谷に入られてからは報恩蔵の一切経を通して5回、ここぞと思う所は何百遍も読誦されてきたのに、この日突然開宗のご文の部分が、そのまま疑いもなく心に入り信じられたのです。機が熟したと申しますか、今まで何でもなかったものが突然に信じられるということは、まさしく不思議としか言わざるを得ないのです。まさに信仰は理屈ではありません。

 祖師はこの時のことを『十六門記』の中で、このような至らぬ私を救うために阿弥陀様は、遥か遠い昔から手を差し伸べてくれていたのだと思うと、嬉しくて大きい声で男泣きをし、お念仏を称えましたと喜びを述懐されています。

 人は雄大な大自然に接した時、素晴らしい人格に触れた時、自分の愚かさに気付いた時等に信仰心が芽生えると言われます。浄土教の信仰者にとってその機縁となるのがお念仏です。お念仏が信を深め、信が行に励みを与えるのです。しっかりお念仏を申しましょう。

教務部長 井澤隆明