今月のことばは法然上人述『逆修説法』より選んでみましたが、これは祖師の弟子安楽房遵西の父中原師秀が、生前に祖師を導師に迎え自分の死後の初七日から七七日までの追善供養(逆修)を行った時の説法の記録です。
そのうち六七日の説法の一部を選びました。現代文にすると、我々の住む娑婆世界の外に極楽があり、私の身体の外に阿弥陀様がおられます。
だからこの娑婆世界を厭い離れて阿弥陀様の国に生まれて、無生忍(往生して得られる覚りに近い境地)を得るべきであります。
このように祖師は娑婆と浄土は別の存在で、阿弥陀様はその浄土におわしますとしています。また『一紙小消息』にも、離れ難き輪廻の里を離れて、生まれ難き浄土に往生せんこと悦の中の悦なり。と同じく娑婆と浄土は違う存在であるとしています。
しかしながら『涅槃経』の一切衆生悉有仏性説に基き、「娑婆即浄土」「煩悩即菩提」などといって、この世と仏の世界は実は一つであり、仏道修行の結果、皆覚りを得てやがてこの世が浄土に変わっていくのです。また煩悩多い私が仏道修行の結果覚りを得て成仏していくのだから、煩悩の中に覚りあり煩悩も覚りも一つである。覚ってみれば元々救われていたのに煩悩によって気付かないだけであるという教説も見受けられます。
これらは「己心の弥陀」「唯心の浄土」といい自らの心の中に阿弥陀様や極楽浄土ありと受け止めるのです。しかしこれらは突き詰めると心の問題に集約されますが、全ての人は悩み苦しみの絶えない覚ることのできない凡夫であるとの人間観に立つ祖師の立場からは全く受け入れられないものです。
法然上人はあくまでも娑婆世界と極楽浄土は別の世界であり、此岸から彼岸へ渡っていくべきであるとするのです。
科学的な思考の現代人には「己心の弥陀」「唯心の浄土」のような教えは理解しやすいのですが、法然上人の教えは全く別で、浄土や阿弥陀様の存在を理解するのではなく信じていくことの大切さを教えられます。
しっかりお念仏を申しましょう。
教務部長 井澤隆明