文治二年(1186年)天台宗の碩学である顕真様(後に六十一世天台座主)の要請によって、京都洛北大原の勝林院に法然上人、南都北嶺(奈良と比叡山)各宗の碩学300名を集めて浄土宗義について論議を致しましたが、これを大原問答・大原談義と言っております。論議は一日一夜に及び法然上人は浄土宗義の優越性を主張し参加者に感動を与え、全員で三日三夜の高声不断念仏で閉会したと伝えられています。

 この時の法然上人の感想が『四十八巻伝』(法然上人行状絵図・勅修御伝)に記されており、これを今月のことばに致しました。その内容は、仏教には自ら覚りを得て成仏していく聖者の法門である聖道門と、末法の世で自ら覚れない凡夫は、阿弥陀様の本願念仏によって、極楽浄土に往生して救われてゆく浄土門が説かれています。この二門はいずれもみ仏の説かれた法門で優劣はありません。しかしながら人間性(機根)については私の見解が勝れておりましたと述懐されておられる言葉です。

 法然上人のこころは、今の時代を生きる人間は悩み苦しみの尽きない煩悩具足の凡夫であり、聖者の法門はどんなにすばらしく崇高な教えであっても、極めることはとても難しい法門です。だからこそ人間性を深く考えれば、阿弥陀様の慈悲におすがりする浄土門しか救われる道はないのです。つまりどんなに立派な教えでも実践のできない教えは机上の空論となりかねず、人間性を深く見たならば浄土門しか救われる道はないと主張されたのであります。

 阿弥陀様の光明はすべての人間に向けられているのです。就中弱く罪深い、そしておぼれ沈んでいく者を見捨てることはないのです。人間の機根を熟知されて世を超えた願いを発されておられるのです。

 人間凝視は浄土門の根本であり、反省懺悔は念仏信仰の要であります。

 しっかりお念仏を申しましょう。

教務部長 井澤隆明