今月のことばは「正如房へつかわす御文」から選びました。正如房は後白河法皇の第三皇女で式子内親王とも称されています。臨終間近い正治三年正月、法然上人にお手紙を認め最後の対面を懇請したのに対し、上人は懇切なご返事にて浄土往生を説かれ、特に往生は阿弥陀様の御力(本願力)にてのみ叶うのであることを強調されております。

さて江戸時代活躍された浄土宗の念仏行者徳本上人は、全国各地に独特な南無阿弥陀佛の名号塔が建立されていることで知られ、その数は千基に及ぶといわれています。

徳本上人は紀州日高郡志賀村(和歌山県日高郡日高町)に宝暦八年(一七五八)に生まれ、二十七歳で出家すると、日高の断崖絶壁で千日の不断念仏を実践した他、数多くの念仏行をなし遂げました。また念仏行中は髪や爪を切らず、裸に袈裟を着けたままの姿であったと伝えられています。厳しい念仏行により不思議な力が備わり、例えば田畑で念仏を称えると虫がいなくなるなど、多くの奇瑞が見られ、各地の農村から招かれたといわれております。

徳本上人は、初めには文字もあまり読めなかったともいわれ、特別な高僧から浄土宗の教義を伝えられたということはなかったようであるが、不断の念仏行によって本願念仏の奥義をしっかり受け止められたといわれています。その信心の根本は法然上人に対する深い思いであります。例えば法然上人が流罪後の三年間住まわれた箕面の勝尾寺に住んで念仏することを願い、同寺の松林庵に住まわれました。別時念仏の日には多くの群集が集まり列をなしたといわれています。

徳本上人は激しい念仏修行を実践されましたが、『一枚起請文』を第一とし、法然上人のみ教えそのままに、他力の本願念仏を信じ、喜び、まさしく「我らが往生はひとへに仏の御力ばかりにて候う」の言葉そのままに阿弥陀様への絶対帰依のご生涯でありました。

思えば法然上人も日々数万、晩年は六万遍ものお念仏を申されました。私たちは自分を過信し自己中心的な思考になりがちです。法然上人や徳本上人の生き方を学び、しっかりお念仏を申してゆきたいものです。

教務部長 井澤 隆明