秋も深まり空気も澄んで月の光が美しさを増す季節となりました。

 さて今月のことばは国宝に指定されている法然上人の御伝記である『勅修御伝』巻六の一節を選んでみました。

 文中の三学とは戒・定・慧のことで、仏道を極めることはこの三つを成就するに尽きるといわれています。戒律を守ること、心を静める禅定、さらに煩悩を断ずる智慧の三学に仏道修行のすべてが収まります。

 法然上人も15歳で比叡山に登られ、学問と修行を重ね、いつしか智慧第一の法然房、持戒堅固の僧との評判が全山に及び末は天台の統領かと噂されるような僧となりました。

 しかしながらこれらの評判や噂とは別に、法然上人の心は自らを十悪五逆の法然、愚痴の法然、さらに三学の器にあらずとの自覚に立たれ、嘆き悩み苦しまれたのがこの言葉です。

 おそらくどんなに修行を積んでも父を殺した源内武者定明の顔が浮かび、さらに生まれ変わり死に変わり重ねてきた罪業の深さを感じ取られていたのかもしれません。血を吐くような求道の末に、仏道を極める器にあらずと嘆き悲しみ絶望の果てに、やがて中国唐の善導大師の『観経疏』に出合い、順彼仏願故と仏様の本願にすべてを委ねる、つまりお念仏の世界に目覚められるのです。

 御伝記によると法然上人は修学中、お経のすべてである『一切経』を通して五遍、ここぞと思うところは何百遍も読み通されたと記されています。

当然『観経疏』も何度も目を通されたと思いますが、機が熟したというのでしょうか、この時は受け取り方が違ったのであります。教学的には信機信法と申しますが、深く自らの至らなさに気づいた時、初めて仏の教えが素直に受け取れるのです。自分中心に考え行動している時は仏の教えはなかなか受け止められません。この今月のことばとその思いがあるからこそ浄土宗が開かれたといっても過言ではありません。

 私たちも自己内省の中にお念仏を申してまいりたいものです。

教務部長 井澤隆明