彼岸も過ぎ秋も深まり月の美しい季節を迎えました。今月のことばは法然上人の「一紙小消息」の一節を選びました。
内容は五逆・十悪という大きな罪業を負った者でも、阿弥陀様は往生させていただけるのだと信じて、自分は少しの罪も犯さないよう心がけるべきであります。罪人も往生できます。ましてや善人はなおさらです。
親鸞聖人は『歎異抄』で「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と述べ、自分を悪い者と知っている悪人と、自分はまじめにやっていると思っている善人では、まず悪人を先に救うのが阿弥陀様であるとする悪人正機説を述べられていますが、近年醍醐本『法然上人伝記』の発見や様々な視点から、この説は法然上人の説であることが論証されています。
さて一見パラドックスのような表現の違いをどのように受け止めたら良いでしょうか。
「無量寿経」の十八願では、まず全ての人が念仏によって往生できるという完全な救済を誓う摂取門を説き、その後唯五逆罪を犯す者と仏法を謗る者は除くとあり、悪を止めさせるためにわざと制限を設ける抑止門が説かれています。また「観無量寿経」下品下生に五逆・十悪を犯した者も往生できる摂取門が説かれています。このように経典では摂取門・抑止門の二方面から阿弥陀様の慈悲のはたらきが説示されています。
これは例えば親が我が子を叱ったり厳しい言葉で導くのも、憎かったりするのではなく愛しいからこそ、良い子に育てとの親の愛情がなせる行為であるのと同じであります。親の愛情を逆手に取り、身勝手では親が嘆き悲しむでしょう。
法然上人は悪人正機も説かれていますが、現実に毎日生活している我々が正しい生活と来世往生の安心の中で日暮しができるように導くのが阿弥陀様の大いなる慈悲のはたらきであるとされます。
しっかりお念仏を申しましょう。
教務部長 井澤隆明