新緑もますます深まり目に染みるようです。
さて今月のことばは先月に続き『選択本願念仏集』より選びました。この『選択集』は法然上人の著作でありますが、全十六章の構成で浄土宗の教えのすべてが網羅されています。
今月のことばのある第十六章は、「釈迦如来弥陀の名号を以って慇懃に舎利弗等に付属したまう文」との章題にて、釈尊が阿弥陀仏のみ名を後の世まで伝えるよう舎利弗に託されたことや、諸仏の総意は念仏の選択にあることなどを述べられています。
今月のことばを現代文にすると、念仏を称えると水に映った月のように水は昇らずとも、月は降らずとも、衆生の水に仏の月が感応して昇降します。つまり、ただ一筋にお念仏を称えていると、月が水面に映るように、私たちの心に阿弥陀様やお浄土のすがたが映るのです。仏と我らがいかに隔たりがあっても、念仏を称えると仏はただちに応えられるということであります。
これは素晴らしい宗教的体験であるが、注意しなければならないことは、『一枚起請文』の冒頭に「もろこし我が朝に、もろもろの智者たちの沙汰し申さるる観念の念にもあらず」とあるように、浄土宗の念仏は観念の念仏ではないということです。観念の念仏とは真理あるいは仏体・仏国などを観察し思念することで、雑念を払い精神統一し厳しい修行を通して体得する世界で、普通の人には相当困難な念仏です。
これに対して法然上人の念仏は口称念仏で、口で称える念仏をただ一向に申すのであります。この口称念仏を相続していると、まさに不求自得、求め得ずして阿弥陀様が私の心に現れてくる感応同交の世界(三昧法得)が展開すると法然上人は今月のことばのような表現で述べられています。
なかなか体験のできない境地でありますが、唐の善導大師もまた、三昧法得の人といわれ、法然上人が師事する大きな理由の一つです。
阿弥陀様の慈悲は広大で、そのすべてが六文字のお念仏の中に摂められているのです。
しっかりお念仏を称えましょう。
教務部長 井澤隆明