桜花爛漫の春、恒例の元祖法然上人御忌大法要の四月を迎えます。

 今月のことばは法然上人が念仏往生についてさまざまな疑問に答えられた『念仏往生要義抄』から選びました。現代文にしなくてもご理解いただけるものと思いますが、参考に述べてみましょう。

 ある人が法然上人に尋ねました。「心が澄んでいる時に称える念仏と、心が妄念で濁っている時に称える念仏とでは、その功徳の勝劣はどのようになりますか」。すると「どちらの念仏でも往生できるという功徳は等しく相違はありません」と上人はお答えになりました。

 法然上人のご信仰は阿弥陀様に対する絶対帰依を中心に、すべての宗教的価値を本願である念仏に置いた念仏中心主義、念仏絶対主義であります。だから美と醜、善と悪、好き嫌い、富者と貪者、智者と愚者、男と女はもちろん、心が澄んでいるとか濁っているとか全く関係なく念仏そのものが尊いのです。

 このような相対的な価値判断は私たちの判断であり、条件によってすべて変化しますが、阿弥陀様の本願であるお念仏は、絶対的価値であり少しも変化するものではありません。

 深山にひっそりと咲く桜は誰から見られることもなく、誰から褒められるわけでもないのに、毎年必ず季節が巡れば美しい花を咲かせます。自然は人の思いとは関わりなく年々歳々花を咲かせるのであります。

 また法然上人は、ただ一向に念仏を称えますと阿弥陀仏の来迎は法爾の道理(自然の道理)にて疑いなしとも述べられています。

 私たちはややもすると自分の価値判断に頼り、こうしなくてはいけない、こうすべきだとか思い悩みますが、どんな条件でも称える念仏こそが変わらぬ尊い存在なのですから、自らの不確かな思いに振り回されることなく、しっかりお念仏を申していくべきことを法然上人は強調されておられます。

 よくよくお念仏を申しましょう。

教務部長 井澤隆明