50年ほど前、「待ちぼうけ」という童謡がアニメとともにテレビから連日流れる期間がありました。作曲は山田耕筰、作詞は北原白秋。モチーフが中国の説話「守株待兎」で、歌うはダークダックス。
ある日、野良仕事をしていた農夫の前にうさぎが飛び出し、木の根っこにつまずきます。農夫は労せずして、そのうさぎを捕らえます。農夫はこれ幸いと翌日からの畑仕事をさぼり、うさぎが飛び出してくるのを、ぼーっと待つように。そうこうしているうちに荒れ野となる農夫の畑。白秋は「寒い北風木のねっこ」という一節でこの歌を締めくくります。耕す心を失い努力を怠る人生の顛末を伝えるこの歌、当時、学校の宿題を溜めに溜めていた私にはたいそう耳の痛い歌でした。
この「待ちぼうけ」、仏教の視点からは農夫のその後が気になります。釈尊(お釈迦様)の弟子の中に、だらだらと修行する者がいました。出家はしたものの修行に身の入らない彼ですが、ある時、心の底から覚りを求める瞬間が訪れます。すると彼はたちまちに覚りを開きます。「なぜ、あの彼が」と多くの弟子たちが疑問に思う中、釈尊は冒頭のように語るのでした。誰にも自分を変える瞬間が訪れる、その瞬間を逃さず、その時の心を忘れるな、ということでしょうか。「待ちぼうけ」の農夫にも再び自分を変える瞬間があるはずです。
これまでどのような人生を歩んできたとしても、わずか一遍であれ念仏を称えるならば極楽往生が叶う、そういう自分に変わることができるというのが浄土宗の教えです。しかし、それは心の底から極楽を願えばこその話。その心を忘れずに持ち続けているか、あらためてこの一年を振り返ってみたいものです。
教務部長 袖山榮輝