早いもので春のお彼岸となり、桜も開花する季節を迎えます。
今月のことばは、大正6年に京都醍醐寺で発見された『醍醐本法然上人伝記』に所収されている「三心料簡および御法語」より選んでみました。因みにこの伝記の最後には「善人なをもて往生す、況んや悪人を乎の事、口伝これあり」の一文があり、悪人正機説の起源が法然上人であるとの有力な根拠の一つにもなっています。
さて今月のことばの内容は以下のようです。
お念仏はこの私が称えることで、往生は阿弥陀様のはたらきです。往生は阿弥陀様のお力なのに、私の力でなんとかしようと考えては自力になってしまいます。
仏教は仏成教といわれるように、仏に成る教ですが、お釈迦様以来覚りを得て仏となられた方はおられるでしょうか。厳しい仏道修行を通して覚りへ向かって精進された多くの人がおられるが成仏されたとは聞きません。それはなぜかというと、修行により深い内省が進み煩悩具足の我身の姿に気づいたからでしょう。この凡夫の自覚こそ機根にかかわる問題で、これこそが浄土教の出発点であります。
阿弥陀仏はまだ法蔵菩薩の時、煩悩具足の私たちを救うため48の本願(誓願)を発し、その実現のため長い修行をされ、やがてすべてを成就して仏となられました。その中心が煩悩のない清らかな極楽浄土の建立と、そこに行く方法である念仏往生の本願です。この成就により阿弥陀仏には衆生済度の力が本願力として備わりますが、これはあくまでも阿弥陀様の力であるので他力というのです。このように阿弥陀仏によって煩悩のない清浄化された極楽浄土が建立され、そこに念仏によって往生できるのもすべて阿弥陀仏の力です。素晴らしい仏の世界で修業がますます進み成仏できるのも阿弥陀仏の力によるのです。
自分が熱心に、まじめに、心を込めて、長い間等々、私が念仏したから往生するのでは決してないのです。すべては私の力ではなく阿弥陀仏の本願他力に救われていくのです。
阿弥陀仏をたのみ、一心に助けたまえ南無阿弥陀仏とお念仏は申しましょう。
教務部長 井澤隆明