明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
今月は京都醍醐寺に伝わる『法然上人伝記附一期物語』の中に収められている「一期物語」より選んでみました。
その内容は、どうしようもない凡夫の習性で1日に2万、3万遍の念仏を申す数を定めたところで、その通りに実行できるものではありません。ただ回数が多ければよいというものでもありません。もとより数を決めるのは心を励まして、お念仏を相続させようというためであります、となるでしょう。
一年の計は元旦にあり、一日の計は朝にあるとよくいいますが、新年の誓いも次第に薄れなかなか実行できないのは世の常であります。お念仏の相続も同じことで日課誓約もままにならない私たちであり、まさしく凡夫の習性とでもいう他はありません。
しかし阿弥陀様の念仏往生の本願を拝読いたしますとなかなか味わい深い、ありがたいものになっています。浄土三部経の一つ『無量寿経』に説かれる第十八番の念仏往生の本願には次のように示されています。
「もし我れ仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽して、我国に生ぜんと欲して、わずか(乃至)十念せんに、もし生ぜずんば正覚を取らじ」と。これは私の極楽国に生まれたいと望んで、わずか(乃至)十念でも念仏を称えたものをも往生させるということです。このなか乃至十念について法然上人は、善導大師の『観念法門』の釈をそのまま踏襲し、『撰択本願念仏集』に十念と十声は同じである(念声一致)とされました。また乃至については、多より少に向うことを示す言葉で、多とは一生涯を尽すということで、少とは十声、一声に至るまでですと述べています。
これは実に尊く、ありがたい言葉で、阿弥陀様の慈悲のみ心は、一声の念仏でも必ず救うということです。だからといってお念仏の相続をないがしろにしてはいけません。み仏の心をいただいて念仏を喜ぶ人にならなければなりません。しっかりお称えいたしましょう。
教務部長 井澤隆明