時処諸縁

 今年も、春のお彼岸の季節となり、コロナ禍での三回目の彼岸会となりました。

 本来は、お寺に大勢の檀信徒の方々をお迎えして、彼岸法要をお勤めするところですが、相変わらず「人との接触の制限」により、人と人との交流ができないことを大変残念に思います。

 また、我々の生活もいまだステイホームの名残があり、リモートで事が足りるようになり、人と人との対面での会話や交流が減り、人の「笑顔」や「優しさ」にじかに触れることができず、時には孤独を感じることもあると思います。

 私は法然上人の「時処諸縁」というお言葉を思い出します。「お念仏は、いかなる時や場所、あらゆる状況であっても差し支えないのですよ」と、ありがたいお言葉です。

 以前、私が朝早く散歩をしていた時、お檀家のTさんのお宅から、「南無阿弥陀仏」......と称えるTさんの大きな声が聞こえてきました。後日奥様にそのことを聞いてみると「主人は毎朝必ず一人でお念仏を称えています」とのこと。しかし「でも主人は家では典型的な亭主関白で、その上体育会系で、大きな声で『ごはんはまだか』『風呂は』と私はいつも命令され、私のことなど労わってはくれません」と、奥様はお寺に来るといつも愚痴をこぼしていました。

 ところが、やがて次第にTさんが奥様に優しくなって来たのです。奥様が足を骨折した時には、優しく奥様の手を取り、介護やリハビリを手伝い、以前のTさんとは全く別人になりました。現在Tさん九十三歳、奥様九十歳、お二人は仲良くお元気で暮らしています。

 お念仏は、自身の往生のためにお称えしますが、そこに至るまでには、自然と自分を見つめ、自分の至らなさに気付かせていただくこともお念仏なのです。

 しばらくは、一人家に居ての生活が続くかもしれませんが、やがて僧俗共々にお念仏をお称えする日が来ることを楽しみに、それまで精進してまいりましょう。

本山布教師 戸﨑博隆
静岡教区 報土寺