願わくはこの功徳を
幼少の頃、夏休みが心躍る最高の時でした。蝉を追いかけ水遊びをし、夏祭りでは子供だけの世界に浸る。キャンプでは「燃~えろよ燃えろ~よ」の歌を、真っ暗闇の中、松明の灯火だけの空間で皆輪になり歌い合う。なんでしょうか、今となってもこの季節のこの風の匂いが、あの時を想起させます。宿題では、キャンプファイアーの絵を描きました。あの灯火が記憶に鮮明に残っているからです。なぜ自分の松明の灯火は、たくさんの松明に分けても減らないのだろうか。むしろ分ければ分ける程、よりいっそう明るく照らしてくれる。夏の終わりそんなことを思っていた幼少の頃でした。
仏教で、回向(えこう)という言葉がございます。自分の功徳を他に分け与える。または、自分が貯めてきた功徳をある目的のために使う、といったことです。大切なあの方のために自分が修した功徳を分け与える。しかし、功徳は目に見えないものですから、自分にどれ程の功徳が貯まっているのかわかりませんし、与えるわけですから一番功徳が得られることをしたいわけです。それが、お念佛をお唱えすることなのです。南無阿弥陀佛と声に出しお唱えすることが、自身往生はもとより何よりも功徳を得られる。その功徳を大切な方々に分け与える。ただ間違えてはならないことは、回向するためにお念佛を唱えるものではございません。あくまで自身往生のために唱えるのです。
江戸時代の法洲という高僧は「回向のためにだけお念佛を唱えても何の回向にもならない。自身往生のためのお念佛であってはじめて回向が叶う」と。自身往生のために唱えるお念佛だからこそ、はじめて大切なあの方に届くのです。松明の灯火を分け与えるように功徳はいくら分け与えても減るものではございません。むしろご自身をいっそう明るく照らすことでしょう。大切にしたいものです。
南無阿弥陀仏
本山布教師 小俣慶樹
神奈川教区 西念寺