信心に疑問が出た時は
人目を飾ることなく、心の底から往生を願って念仏を続けてゆけば、自然に三心は備わってくるものである。
これは法然上人のお言葉だ。例えば、葦が茂っている池の水面に月が映っている場合、遠くから見たなら葦が邪魔をして月が映っているのが見えない。しかしよくよく近づいてみると、葦と葦の間に月は映っているのがわかる。心の中に妄念(お念仏に対する誤った思い)という葦が茂っていたとしても、三心(阿弥陀様をお慕いする気持ち)という月は宿るものなのであるということだ。
自分の信仰心に疑問を持ち始めてしまったきっかけがある。平成27年、私は布教師養成講座に入行した。浄土宗において長い歴史を持つ伝統的な講座だ。布教の勉強を一からしたい、そう思ったからだ。
ある程度自信を持って入行したつもりだった。お念仏を継続してお称えしてはいた。けれどその自信は砕かれそうになった。初級・中級・上級とお世話になった先生方の信仰心、そして布教される力には驚かされた。それだけではなかった。同期の仲間には、「南無阿弥陀仏」を毎日ノートに書き続けている者。養成講座中の休憩時間、みんなが休んでいる中一人本堂でお念仏をお称えする者。各々の信仰の形を深めていた。
私のお称えするお念仏は、「彼らと同じくらい阿弥陀様に寄り添っているだろうか?」と問いかけてくる自分がいた。そうなると、布教も自信を持ってできなくなってくる。これは困った。私の心には葦が茂っていたのだろうか?月はしっかりと映っているのだろうか?と疑い始めたのだ。
そう思っていた時、最初に示した法然上人のお言葉に出会った。ここからこそが、私の信仰の始まりなのかもしれないと思えた。阿弥陀様と、お念仏と、向き合い始めた、だからこそ悩み始めたのだ。そう思わせてくれる法然上人の本当に力強いお言葉だ。皆様もこの言葉に出会ったことで、お念仏生活がよりいっそう力強いものとなるよう願っている。
同称十念
本山布教師 楠見正隆
千葉教区 安国寺