お彼岸に思いを馳せて
2018.03.01
日に日に春を思わせる今日この頃です。
私の住む長野では、お彼岸になってもまだお墓の雪が残っております。そのため、春のお彼岸にお参りに来る人はほとんどおりません。
さて、私は、昨年十月に父が亡くなり、まさしくこの春に初のお彼岸を迎えることとなりました。父は、五十年以上も大きなお寺の役僧として、住職の身の回りの世話をさせていただいた僧侶でありましたが、十数年前に還俗して、鹿児島県に次男の家族とともに移り住み余生を過ごしておりました。
通常、師弟関係や親子関係があると喪主あるいは遺弟である場合は、お経を読むことはないのですが、還俗していたため、私の兄に当たる長男が喪主となり私が導師として、葬儀を行うこととなりました。
悲しい気持ちと、導師であることそして父の葬儀を自分で送ることができることなど複雑な気持ちではありましたが、何とか無事に勤めることができました。
叔父から聞いたことがありますが、「亡くなられた方々にとっては、お彼岸あるいはお盆、お正月は、親族縁者に遭える数少ない日なのだぞ。他の家のお墓にお参りに来ている姿を見ながら、身内がお参りしてくれるのを心待ちにしているのだ。まるで小学生が、授業参観に来る親を期待しながら待っている姿のようだ」と聞かされたことを思い出します。
そう考えると今までご先祖様の守られたお墓にどれだけ手を合わせたのだろうか、どれだけ、お花やお線香を捧げただろうか、深く考えさせられるお言葉でした。
いずれにしましても、亡くなられた方々への感謝の念を持ちつつお念仏の称えられる環境を自ら作らなければ、先立たれた方々が、悲しんでしまうことと思います。ぜひ皆様もしっかりお参り致しましょう。
本山布教師 小林 育道
長野教区 長谷寺
三分間法話