しかたがない
先日、母方の伯父の葬儀を勤める機会がありました。導師を勤めた私を含めた親族だけの小さな式ではありましたが、本人が八十歳を過ぎてから新築した自宅から無事に送り出すことができました。
母方の親族の葬儀を勤めるのもこれで二度目となりますが、これもしかたがないことなのでしょう。世間的には私もアラフィフと言われる年齢に差し掛かりました。当然私の周りの人たちも同じく歳を取り、時が経てばやがてはこの世を去らねばならない時がやってくるのです。
一方、母にとっては近しい人を亡くした悲しみもあるのでしょう。
「しかたがない」
ポツリと呟き溜息ひとつ。
私たちの日常は無数にある娯楽をはじめ、実に人の死が見えなくなるフィルターに溢れています。しかし、特に身近な人の死に直面した時、人はやがて必ず死を迎えるのだという、なかなか受け入れにくい事実の前に引きずり出され、そしてそれは自分の力ではどうにもならないことを思い知らされます。それが「しかたがない」ということ。
自分の力ではどうにもならないことを受け入れる心が理性です。そして理性は知性という素養の上に培われます。知性とは何でしょうか。
私は知性とは道理を理解することだと心得ます。人がやがてこの世を去らねばならないということは道理です。しかしそれだけではありません。お念仏をお称えする私たちがこの世を去った後には必ず極楽浄土へ往生することができることもまた道理なのです。そしてその道理を理解することが受け入れにくいことを受け入れるために必要なことなのです。
「しかたがない」というのは決して後ろ向きな言葉ではなく、実に理性的な言葉なのです。このことを心得て、なるべく普段から道理に対する理解を深め、心穏やかに過ごしたいものです。
本山布教師 新井直人
群馬教区 哀愍寺