生きていく意味
先日、旦那さんの三回忌法要でお寺に来られた六十代半ばの女性から「なぜ、この世の中、こんなに苦しいことが多いのに生きていかないといけないんでしょうか?」と尋ねられました。法要の後十分ほどその方のお話を聴かせていただきましたが、二年前に最愛の旦那さんを病気で亡くされ、それ以来、生きることが苦しくてたまらないという切実な悩みを抱えておられました。
私はその時その場でその問いに対する明確な答えを出すことができず、ただお話を聴くことしかできなかったことに僧侶として無力感だけが残りました。
そのことが、自分自身に置き換えて今自分が生きている意味を考えるきっかけになりました......。
そして後日、その方とはお寺の行事でお会いする機会があり、今度は私から話しかけてみました。
「先日、なぜこの世はこんなに苦しいのに生きていかなければいけないか?と尋ねられてあの時はきちんとお答えできませんでしたが、あの後、私なりに考えてみました。私は五年前に父を突然亡くしました。そして直後はやはり悲しさや喪失感から生きていくのが不安になっていました。でも時が経ち今、苦しいことがあっても生きていることの意味を考えると、それは別れた父といつか極楽浄土で笑顔で会うためだと思えます。極楽浄土で父に会った時に「まぁお前もあの後そこそこがんばったな」と笑顔で言ってもらうために今をがんばって生きている。苦しいことがあってもそれだけでがんばれると思っています。この世をがんばって生きていないと極楽浄土で待つ大切な人と笑顔で会うことはできないと思います。そして浄土宗の教えは"なむあみだぶつ"とお念仏を称えることで阿弥陀様に救われて極楽浄土で大切な人と必ず会うことが叶うわけですから、やはりこの世はお念仏を称えてがんばって生きていくしかないと思います」と。
その方は黙って聞いてくれていましたが、最後に笑顔で手を合わせて小さな声で"なむあみだぶつ"と称えてくれました。その笑顔とお念仏に私自身も救われた思いが致しました。
南無阿弥陀仏
本山布教師 楠美知剛
青森教区 正覚寺