お念仏を支えに

 「何を支えに生活すればいいのでしょうか」。
法要の席で、男性のお施主様がそうおっしゃいました。私はつい、世俗の視点で「趣味や活動などおやりになっては」とお伝えしました。すると、その方は浮かないお顔をされました。お話をうかがってみると、その方は週3回の人工透析に通院されていました。趣味や活動などできなかったのです。
法要の席でありながら、「法」を傍に置いて世俗の視点で応じてしまったことが悔やまれました。

 私たちは、現実の問題や悩み苦しみを「気の持ちよう」など、こうした世俗の視点で処理しようとすることがあります。確かにそのような視点で一時はやり過ごせることもあります。でも現実そのものは変わりません。またもとの現実に引き戻され悩み苦しむの繰り返し。誰もがそうではないでしょうか。

 私たちの心はことあるごとに乱れます。世俗の視点による言葉は頭では理解できても、それによって私たちは心や感情を保ち続けることはでき ないのです。

 法然上人は、このような私たちの現実の姿を直視されました。法然上人は、人々の苦悩に世俗の視点で応じることはありませんでした。浄土宗開宗以後はすべての方に「お念仏の御教え」をもってお説き下さいました。

 阿弥陀様は、私たちのために悩み苦しみのない極楽浄土をお建て下さり、心が乱れた私たちにもできるお念仏を極楽往生の行に定められました。
悩み苦しみ泣きながらでも極楽往生を願いお念仏をお称えすれば、阿弥陀様は私たちをそのままに受け入れ包み込んで下さり、いつか極楽浄土にお救い下さいます。そのようにお念仏申す中に、安心を感じることができれば何よりのことです。

 冒頭のお施主様には、のちに改めて浄土宗の法、法然上人のお念仏の御教えをお取次ぎさせていただき、「お念仏を支えとされお過ごし下さい」とお伝えし、ご一緒にお念仏をお称えさせていただきました。私たちもお念仏を支えに過ごしてまいりましょう。

本山布教師 笠島崇信
千葉教区 来迎寺